人文系研究者はデジタルに手を出しても評価されない?

(2021/07/06 午前、追記あり)

海外ではデジタル・ヒューマニティーズ(DH)が普及しつつあるのに日本では…という話は最近よく聞きます。 日本でDHについての話題が出ると、人文系のベテラン研究者の方々からは 「しかしデジタルに手を出しても評価されないんだよね…」という話をよく聞きます。

ではそれは 海外ではうまくいっているのかというと、海外でも完璧にうまくいっているわけではなさそうです。 ただ、多くの大学にDHセンターが設置されたり、DHのカリキュラムが提供されるようになったりして、 ポストがかなり増えてきていて、そうすると、そういったところで自分の分野での取り組みが なんらかの形で評価軸を持てるようになれば、そこで自分の分野の若手がポストを確保しやすくなると いった状況は生じるように思います。たとえば、文学や歴史学でデジタルに取り組んでいる人が そういったポストに採用されようと思った場合、ただデジタルについての知見のみで 勝負しろと言われたら基本的に分が悪いはずです。情報系の人よりちょっとデジタルが 苦手な人、以上の評価軸が出てこないからです。しかし、文学や歴史学において、 その人のデジタル的な仕事を評価する指標が用意されていれば、「デジタルについての知見は これくらいだが、それを文学(あるいは歴史学)において適用することについて、 文学(あるいは歴史学)においてはこのように評価されている」という形で 評価を受けることができます。そうすると、ただデジタルが苦手な人、として勝負するのとは まったく異なる展開になるであろうことは容易に想像できます。

しかし、そのために 評価指標を考えるような面倒なことをするのか…と思ってしまうかもしれませんが、 海外の一部学会ではすでにやっているようです。たとえば、アメリカ歴史学協会による 歴史学におけるデジタル研究を評価するためのガイドライン はまさにそういうものでしょうし、米国MLA(現代語学文学協会)も、 Guidelines for Editors of Scholarly Editionsというものを出しています。 さらに言えば、DHという領域自体も、MLAやAHAの研究者たちが米国では積極的に運営に関与してきた経緯があり、 歴史学や文学研究におけるデジタル研究の評価軸を作るというニュアンスが含まれているように思えます。 DHでは、査読付きジャーナルが複数刊行され、人文系ながら、SSCIにも登録することでインパクトファクターが つくようになったものもあり、これも若手に業績を作らせるためというニュアンスが強いようです。 査読付き国際カンファレンスも、大きなものが年1回開催されるだけでなく、世界各地で ローカルなカンファレンスが行われ、デジタル研究をすることで業績を積むことができる 仕組みも10年ほど前には確立していました。

さて、海外でやっているから、海外でうまくいっているからそれを日本にそのまま導入できるのかと言えば、まったく そんなことはなく、しかも、導入したからと言ってうまくいくとも限りません。日本の実情にあった 仕組みややり方を考えるのが大切です。

しかしながら、日本の実情、と言ったときに、 大小あわせて膨大な数の学会が乱立し、800近い大学が提供する多種多様なカリキュラムやポストを想定すると、 すべてに対応できるような汎用的な対応策を考えるのはなかなか難しそうです。一方、海外のように DHセンターが作られてポストがどんどん増えるということも少なくともすぐにはなさそうです。

とはいえ、最近は、「改革」の名の下に、データサイエンス系の学部をはじめ、横断的な教育研究を志向する組織が どんどん作られるようになってきています。また、新規組織でなくとも、伝統的な名称の 組織であっても内部でかなり体制を改築して学際的な研究ができるポストを作っていくことも 散見されるようになってきました。そうしますと、それにきちんと対応できるような横断的な対応のできる 人材を育成することも求められているように思われます。そこで、人文学の側から横断的な 教育研究のできる人材を輩出することができれば、若手のポストが確保できるというだけでなく、 研究分野としても幅が広がっていって、色々な面白い展開につながっていくことも期待されます。 その場合、必ずしもDHというわけではなく、化学だったり地学だったり、様々な分野との 横断の可能性を考えることはできるでしょう。ただ、他の多くの理系諸分野と異なり、 情報学、デジタルは習得するにも研究として利用するにも、費用もスペースもそれほど かかりません。デジタル技術のある部分はオープンムーブメントのまっただ中にあり、費用をほとんどかけずに なんとかしてしまうことさえ可能です。横断的な研究として取り組みやすいものとして、 DHは有用性が非常に高いと言ってよいでしょう。

そのように考えてきますと、デジタル技術を習得して横断的な研究、あるいは学際的な研究が できるようになることは、人文学や人文学を志す方々の未来を切り拓く上でもかなり有力な 選択肢の一つであるように思えます。とはいえ、デジタル技術を習得しただけでは、 たとえば横断的・学際的な研究の場にポストを得ようとしても何の評価もされません。 情報系の資格を持っていると少しアピールできますが、既存技術をマニュアル通りに 理解しているというだけでは、大学で教育研究を主導する立場になってもらうという 観点からの選考にはややアピール不足です。たとえば、競合する相手が情報系の 研究者であった場合、これはたとえば自動車を設計開発する人と運転免許を持っている 人くらいの違いになってしまうのであって、やはり、学術研究として取り組めているという 形になっていることが重要になるように思われます。

このようにして考えると、DHの研究業績を積むことは、研究者個人の生き残り戦略としては 有用のように思われます。もちろん、文学や歴史学そのものにおいて評価されているわけではないのですが、 DHという分野で評価されていることは示せます。文学や歴史学のポストにつこうと思ったら DHの業績はあまり(あるいはまったく)評価されないということもあるかもしれませんが、 スクラップ&ビルドが繰り返される大学の組織・ポストにおいては、評価軸を複数 持っておくことが保険として機能する場合も十分にあり得ます。JREC-INを見ていても、 DH的なポストの募集がかかる例は着々と増えてきていますし、デジタルと言わずとも 学際的な教育研究を求めるところでも、やはりDHとして研究業績を積んでいれば 評価されやすくなるように思われます。そのような観点に立つなら、 冒頭の「デジタルに手を出しても評価されない」というのは、そう言っている人やその周囲の人たち(=分野)が 評価しない、ということであって、研究者個人が評価されない、ということとは別の軸の話である のかもしれません。

また、そのように考えていくと、むしろ、文学にせよ歴史学にせよ、自分たちの分野で デジタル研究に関わる人の仕事を文学や歴史学として評価するような枠組みを用意しておけば、 自分たちの分野でそういった研究に関わろうとする人たち(特に若手)の将来を 選択肢を増やし、そして自分たちの分野の研究自体の将来的な幅も広げていくことにつながるのではないか、 という風にも思えます。これは全然突飛なことではなくて、米国ではもうずいぶん前に 始められていることです。

「デジタル成果物」の評価

さて、DHの評価には、もう一つ難しい問題があります。それは、論文や研究発表ではなく 研究者(の卵)が時間をかけて作成したデジタル成果物自体も評価の対象とすべきではないか、 という議論です。これには私は半分賛成、半分反対です。というのは、デジタル成果物を 評価の対象にしてしまおうとするなら、それはつまり、ある分野の資料や研究手法の 特徴と課題を知悉し、さらに、それらに適用すべきデジタル技術についても十分な知識を 有していなければ評価できないからです。そこで、海外先進国では、Text Encoding Initiative ガイドラインを作成して、これに沿って作っているかどうか、ということを軸とした 評価を可能にしているわけです。たとえば、デジタル校異本を作成した、と持ってこられた 時に、「校異情報をどういう風に扱っているか」を確認しようとしたなら、 まったく標準規格がない状態であれば、データの構造からそれを解釈・処理する アプリケーションまで、すべて評価者が一から確認しなければなりません。しかし、 欧米先進国ではTEIガイドラインがあるので、まず、それに準拠しているかどうかを 確認し、準拠していれば、あとは、すでに定められた記法をどのように適用しているか、 を確認すれば済みます。もちろん、TEIガイドラインに準拠せずに成果物を作成する こともあるでしょうが、その場合は、そのようにして簡便に評価してもらえる道筋が あることを前提として敢えて茨の道を歩くことになるわけですから…ということになりますね。 欧米先進国では、とりあえずTEIガイドラインはDHの基礎の一つとしてDHのカリキュラムに組み込まれている ので、DHの教育を一通り受けた人は皆知っているという、大変裾野の広い状態になっていますので、 そういうことも可能になっています。

 技術標準は、TEIガイドラインだけでなく、他にも資料の性質や状況に応じて色々なものが あります。それらを適切に採用・適用できているかどうか、結果として自分の分野なり その資料に関心をもつであろう誰かに十分に益をもたらせるようなものになっているかどうか、 ということを適宜判断していくことになるとしたら、やはりかなり専門知識を持った人に 委ねざるを得ません。また、もちろん、ソースコードやデータは評価者がすべて きちんとチェックできるようになっていなければなりません。(そして評価者は そういうものも一通りチェックしなければなりません!)そういうことを考えますと、 「論文」や「研究発表」というスタイルは、準備する方は大変な手間になってしまいますが、 評価する人に対して、どういう点が評価に値するのか、ということをきちんと説明する 機会になりますので、評価する側の負担はデジタル成果物に比べたらかなり少なくなり、 評価の質も高まるように思われます。

「論文」や「研究発表」を行うためには、単に「この技術を採用した」というだけでなく、 なぜその技術を採用したのか、他の類似技術を採用しなかった理由は何か、 あるいは、その技術の適用においてどういう課題が生じてどう解決したのか、 他に解決の選択肢はなかったのか、といったこともきちんと(調べて)書かねばなりません。 これはなかなかの手間ですが、評価する側の負担や、より適切に評価できる体制を 作っていくという観点からは、頑張ってデジタル成果物を作成した後に、もうひと頑張りして 「論文」や「研究発表」を作成するのがよいのではないだろうか、と、現時点では 思っているところです。

(以下、追記部分です)

なお、この課題については、人文系だけの問題ではなく、理工系も含む多くの研究分野で 同様の問題が発生しています。「研究のためのデータを誰が作って誰がメンテするのか」という問題です。

「デジタル成果物はデータだけではない…」と思われる人もいらっしゃると思いますが、 とりあえず、現在は、研究データとそれを処理して分析したり表示したりするシステムは 明確に区別できるようにしておいて、研究データはそれぞれの分野の国際標準規格に 準拠して作成し、それだけを単体で流通させるというのが国際的に広く行われるようになっています。 処理系のプログラムはどんどん進歩して数年で使えなくなってしまいますが、研究成果も そのペースで使えなくなってしまうと大きな問題ですので、そうならないように、 活用可能性が高く、作成者の意図を明確に提示できるようなフォーマットを 各分野で決めて、それに準拠したデータを作って公開するということになっています。 このやり方だと、研究データが長期間使えるというだけでなく、フォーマットが 決まっているので、データを処理するプログラム・システムを作る際にそのフォーマットを 念頭に置いて作れば、世界中の同分野のデータにそのまま適用できることになるため、 プログラム・システムを作った場合の波及効果が大きく、結果として、そういった ことを行うための予算も付きやすくなり、予算規模も大きくできる、といったこともあります。 予算規模が大きくなれば、その予算で人を雇用できることにもなりますので、 ボランタリーな片手間仕事という感じではなく、その仕事のために誰かが 雇用されるという状況を作ることも可能になります。

そこで、「研究データの構築運用」という横串を提供してくれるコミュニティが最近は 国際的に活発になってきています。国際的には Research Data Alliance (RDA) というコミュニティが横断的かつ活発に活動しており、しばらく前に日本でも大会を 開催したことがあります。日本でもこれに対応するようなコミュニティ活動として 研究データ利活用協議会というのがあります。 こういったところでノウハウを共有できるようにする一方で、研究データを供託し、 DOIをつけてくれるリポジトリやジャーナルなどもでてきています。

人文系だと、リポジトリとしては、Zenodoがよく使われるようであり、 最近、八代集のデータなども登録されたようです。 また、後者の例としては、最近は Journal of Open Humanities Data というのが出てきています。

こういったもののいいところは、データを作ったこと自体、あるいはデータの内容が 評価されるところまではいきませんが、DOIが与えられ、論文と同様に参照できる ため、データを使った際に、論文を引用するかのようにデータを引用し、 それが使われたということがサイテーションインデックスのコンテクストで 評価されるようになる、という点です。

「データを使ったら謝辞に書けば良い」という話を聞くこともありますが、 それでは結局、サイテーションインデックスのコンテクストにのらないので、 論文の謝辞まで読まなければデータが使われたかどうかの確認ができません。 しかも、謝辞ではフォーマットも様々なですので、自動読み取りもなかなか 難しいです。きちんと引用の形式で書くことが、評価につなげるためには重要です。

さて、もう一つ戻ってみると、「評価してもらいたいデジタル成果物」には、 データだけでなく、それを処理したり表示したりするためのシステムも含まれることが あり、そうすると、それらの見た目や使い勝手という側面もあります。上述のように、 一定のフォーマットに沿って作られた研究データを対象にしたものであれば、 汎用化がある程度可能ですので、規模感という意味では、分野全体、さらには フォーマットを共有する複数分野にわたって評価してもらうことも考えられます。 見た目や使い勝手は、 プログラムを作ったりCSSを書いたりと、これはこれで大変工夫の余地があります。 そのあたりも、Data visualizationなどの文脈で他の分野と同様に考えることは ある程度は可能ですが、ある部分からは、各専門分野固有の評価軸が可能でしょう。 データの構造などがわからない場合には、むしろそういった点に着目して 評価することになるかもしれません。そのあたりは、分野としてどうするか、 あるいは、フォーマットを共有する分野同士でどう考えるか、 色々検討してみる必要があるのかもしれません。