デジタル校訂テクスト作成のMOOCに日本語字幕がつきました

このところ、東京大学で開講されている人文情報学に関する授業を通じてDHへの取組みを始めた大学院生を中心に、近隣の若手研究者にも加わっていただいて、「デジタル校訂テクスト作成のMOOCに日本語字幕をつける」という取組みを行っていました。

 

やや長目の前置き

 ここで一つ、お断りしておかなければならないのは、「校訂テクスト」という用語です。「校訂」という言葉には、誤ったものを訂正するというニュアンスが入ってしまいがちであり、実際の所、「正しいテクストを作るために」校訂を行っているという時代もあったようです。しかしながら、残っている様々な写本・版本・原稿は、「正しい」と言えるものが本当に存在するのか、という問題が常につきまといます。たとえば、源氏物語を書いた紫式部の直筆原稿が残っていない以上、どれが正しいかというのは推測でしかありません。でも、江戸時代に広く読まれた木版の源氏物語は、もしかしたら紫式部が書いた源氏物語からは少々離れたものかもしれませんが、しかし、一方で、江戸時代に広く読まれた(であろう)テクストであるという状況には、研究対象としても相応の意義・価値が見いだせるかもしれません。江戸時代にそれを読んだ人たちにとっては、それが源氏物語であり、それを元にして色々な思考や活動を紡いでいったのですから。

 似たようなことは、聖書でも仏典でも見いだすことはできるでしょう。そうだとすると、現在残されている写本・版本などが様々に異なりを見つけられるからといって、それらをまとめて「正しいテクスト」を見出そうとすることは、やや乱暴なことである、という風に考えることもできます。そうすると、そのようにして様々な少しずつ異なる文章を含む写本・版本群をとりまとめて一つのテクストとして提示しようという取組みを「校訂」、つまり、誤りを正す、というニュアンスを含む言葉で表現するのは、誤解を招いてしまうのではないか、という懸念が生じます。この懸念を避けるために、「学術編集版」という言葉が提唱されています。

 実際の所、紙媒体では、たとえば Nestle-Aland版ギリシャ語新訳聖書に端的に見られるように、「本文」を書いた上で、脚注に「異文」を記載するというスタイルを避けることはなかなか容易ではありません。この状況で「校訂」と言ってしまうと、「本文こそ(のみが?)正しく価値がある」という考え方を、ともすれば強化してしまいがちであるようにも思われます。しかし、デジタル媒体では、必ずしも「本文」のみを示す必要はなく、むしろ、複数の異文を含むテクスト様々なビューで表示してみる、といったことが簡便に行える可能性があり、実際に、このMOOCで紹介しているText Encoding Initiative (TEI) Guidelinesは、それを実現するための記述方法であり、欧米の文献学ではすでにそういうことが普通にできるようになっています。たとえば西洋中世写本研究のカリキュラムにも、この記述の仕方が取り入れられ、若手研究者にとっては、得手不得手はともかく、リテラシーのレベルでとりあえず学んでおく技術ということになっているようです。

 さて、少し話を戻しますと、筆者としては、基本的には「学術編集版」に賛成なのですが、しかしながら、今度は、日本語の「編集」という言葉が孕む行為としての弱い側面が、editという言葉がもつ強さを十分に反映できず、逆の意味での誤解を招かないか、という心配も一方で持っております。そのようなことから、ここでは「校訂テクスト」という、誤解を招くかもしれない言葉を、しかし、日本語の慣用としてのわかりやすさから、用いてみています。TEIをベースとした、「デジタル学術編集版」が、「校訂」という言葉の持つ危うさを実践の面からフォローしてくれるのではないか、という期待もあります。(特に、lemmaを持たないcritical apparatusという使い方がそれを示してくれていると思っています。)

 

デジタル校訂テクスト作成のためのMOOC

 前置きが長くなりましたが、そのようなことで、デジタル学術編集版(≒デジタル校訂テクスト)を作成(記述)するために、DARIAH(欧州人文学デジタル研究基盤)が昨年後半に公開したMOOCに日本語字幕をつけるという作業が、完了はしておりませんが、かなり進みましたので、お知らせする次第です。

 MOOCのサイトはこちらです。

 なお、様々に用意されている教材群や説明書きはまだ和訳されていません。が、MOOCのビデオをみていただくだけでも、TEIによるテクスト校訂の記述がどのような考え方に基づいて行われているか、というのは、テクスト校訂についてご存じの方であれば、把握していただけるのではないかと思います。私がこの仕事に取り組んでいて面白いと思うことの一つは、西洋中世のことを研究している、日本語や東洋の言語文化のことなどまるで知らない人たちが語る「デジタル校訂」についての問題意識とそれに基づく実装が、西洋中世写本のことなどまったくわからないこちらにもよくわかる、ということです。もちろん、西洋文献学の影響を受けたから、という背景もあるだろうとは思いますが、それを踏まえた上でも、やはり面白いと感じてしまうところです。MOOCのビデオの一覧はこちらで閲覧できますので、よかったらぜひ、字幕を日本語にして、お楽しみください。

 おそらく、日本語で、テクスト校訂に関するTEIガイドラインのまとまった解説はこれが初めてなのではないかと思います。その意味でも、今回の日本語字幕付きMOOCは貴重なものなのではないかと思います。(個人的には、部分的には論文で言及したりしたことはあります。あるいは、もしすでにこういうものがあるということをご存じの方がおられましたらぜひお知らせください。)

 

 それと、注意しておいていただきたいのは、ここで講義されていることが「記述方法」である、という点です。「表示」と「記述」は別なものである、という考え方が割と広く受容されているようであり、「表示」のためのソフトウェアはまた別途開発されています。有名なものに、メリーランド大学Versioning Machineがあります。が、他にも色々な表示用ソフトウェアが世界各地で開発されています。一度、TEIのガイドラインに準拠して記述しておけば、あとは様々なソフトウェアで表示したり処理したり分析したりすることができるし、さらに、いつか誰かがとても素晴らしいソフトウェアを開発してくれた時に、労せずしてそれにうまく読み込ませてさらに利活用の幅を拡げることができる(=将来に向けての前向きな投資)、ということでもあるのです。

 

日本語字幕を作成された方々

 今回の日本語字幕作成に携わった方々は、以下のとおりです。DARIAHのサイトにも掲載されていますが、頑張ってくださったみなさんに敬意を表して、字幕翻訳者一覧をこちらにも掲載させていただきます。

  • 伊集院栞 Shiori Ijuin (The University of Tokyo)
  • 幾浦裕之 Hiroyuki Ikuura (Waseda University)
  • 一色大悟 Dr. Daigo Isshiki (The University of Tokyo)
  • 小林拓実 Takumi Kobayashi (The University of Tokyo)
  • 小風尚樹 Naoki Kokaze (The University of Tokyo)
  • 李増先 Dr. Zengxian Li (Ritsumeikan University)
  • 宮崎展昌 Dr. Tensho Miyazaki (Intl. Institute for DH)
  • 永崎研宣 Dr. Kiyonori Nagasaki (Intl. Institute for DH)
  • 纓田宗紀 Soki Oda (The University of Tokyo)
  • 岡田一祐 Dr. Kazuhiro Okada (National Institute of Japanese Literature)
  • 山王綾乃 Ayano Sanno (Ochanomizu University)
  • 鈴木親彦 Chikahiko Suzuki (Center for Open Data in the Humanities)
  • 田中翔Shogo Tanaka (The University of Tokyo)
  • 王一凡 Yifan Wang (The University of Tokyo)

 

終わりに代えて

DARIAHのMOOCは、他にも様々な用意されています。自分で日本語訳して日本語でも使えるようにしたい教材を発見した人がおられましたら、先方に相談してみますのでぜひお声がけ下さい。