母校で先生をやっている後輩氏が、かつて人文系の教員は外部研究資金を取らなくても研究できていたしその行為自体を否定的に見ていた人もいたという話をツィートしていた。確かに、母校の出身研究科(哲学・思想)が特に研究資金獲得から縁遠いところだったこともあり、そういえばそういう感じだったということを思い出した。が、同時に、それが当時なぜ可能だったのかということを、主に学生・院生時代に個人的に見聞きしてきたことを中心に、少し想像してみたいと思う。
かつて、学術出版社がまだ割と元気だった頃は、出版社の編集者が学術書だけでなく学術的なことを書いた啓蒙書の企画を持ってきたり、教科書の企画を持ってきたりして、人文系の研究者はいわれるがままに原稿を書いて渡せば、あとは出版社が勝手に組版してくれて、あとは校正に少しお付き合いすれば、いつの間にか書店に並ぶようになって国立国会図書館にも納本されて、販促も出版社が一生懸命やってくれるからこちらは場合によっては少しお付き合いするくらいのことでいいし、教科書だったら学生に買ってもらうことで出版社の方々の食い扶持もなんとかなっていた(のではないかと思う)。若い頃、時々出版社の編集者(の方々)と先生(方)の集まりに行って晩ご飯までお付き合いすると、これからの社会はどうあるべきかという話から自分の研究分野がそこにどういう形で貢献していくべきか、そのためにどういう本を企画するか、というような話とともに、誰がどんなお酒が好きだとか、かつて一緒に飲んだときの失敗談など、そういう楽しい(?)議論の場が持続的に形成されてきたことをうかがわせてくれたのであった。(そういうのは今でもあるかもしれないが)
教科書出版については、学生からお金をとるのか!と思う向きもあると思うが、たとえば200ページくらいの本が2000円くらいで手に入るなら、コピー代とたいして変わらないので、きちんと製本されていて長持ちする上にプロの編集者が校正にお付き合いしてくれたものであれば、ばらばらのコピーをその都度配布されてコピー代を徴収されるよりも良い点が色々あったのではないかと思う。個人的には、本を所有するのが好きで、教科書に限らず副読本的なものも含めて色々な本をアルバイトしながら買っていた。懐具合が厳しくて購入が困難な場合も、図書館が購入してくれて使わせてくれる場合もあったようだった。
一般に売れる本でなくても、研究者や大学図書館が買ってくれることを目当てに出版を行う場合もあったようだ。現在でも、貴重資料の影印版が高値で刊行されることがあるが、かつてはもう少し安価だったような気がする(あくまでも個人的な印象)。この種のものだと、著者による買い取りや出版助成金等をとって刊行することもあったようで、外部研究資金獲得のような話が割と昔からあった部分かもしれない。
一方、研究に関連する資料が必要な場合は、とりあえず図書館に行ってみると、使い方の習熟がちょっと面倒だったものの、検索すればその存在と配架場所がわかるので、そこに行って閲覧したり、借りられるものなら借りてみたりしていた。特に重要なものや好きなものは書店に行って購入した。必要なのに購入ができず、自分の大学の図書館にもなかった場合には、ごく稀に市立図書館が所蔵していることがあって、借りに行くことがあった。それでも入手できない場合は、図書館間相互貸借や複写依頼の制度を利用して資料を閲覧していた。私の学生時代にもできていたのかどうかはわからないが、現在は海外の図書館からも取り寄せることができるのだそうだ。
(追記:本件については以下のツィートをいただいた。つまり、海外に関してもサービス提供は行われていたそうだ。
「私の学生時代にもできていたのかどうかはわからないが、現在は海外の図書館からも取り寄せることができるのだそうだ。」digitalnagasakiのブログ
— てこぺん (@tecopen) January 26, 2019
20世紀の大学図書館でも海外ILLはやってました。メールの無い時代、BLを除いて返事が来るかは運だったけど。
https://t.co/G5VkEawDo2
なお、海外の図書館では1995年からIFLAバウチャーなるものを通じて費用を相互負担しているらしく、日本でもこれを使うことがあるようだ。)
院生時代も、ごく稀に、時間と旅費の工面がつくときは、国内の図書館やその他の機関であれば自腹で旅費を出して資料を見に(コピーしに)行くこともあった。
他にも色々な経験やエピソードはあるが、とりあえずこういったことの背景にどういうお金が動いていて、それが現在どうなって、今後どうなっていくかということについて少し考えてみたい。(こういうことはもっときちんと分析している人が出版学とか図書館学・図書館情報学の方におられると思うので、これは素人の感想ということでご容赦いただきたく、参照すべき論文等があったらご教示いただけると幸いである)。
まず、出版社が色々やってくれていた部分。これは、現在で言うところのアウトリーチやラーニングシステムでの教材作成、成果の刊行、研究用データの作成公開などにあたるだろうか。まだ他にもあるかもしれないが、そういった活動に関して、出版社は、ごくコアな部分を除いては、全国の大学図書館や各種図書館、本を読みたがる読者、教科書として利用する学生などから数千円ずつを集めて、それを活動資金としてほぼ自律的に活動してきてくれたようなのである。企業としての活動を支えるための、事務的な作業をする人の人件費や事務所の賃料から印刷して書店の店頭に並び、国立国会図書館に納本されるところまで、今で言うところのクラウドファンディングみたいなものだろうか。そこでは総体として少なくないお金が動いており、しかしそこに人文系研究者の多く(ほとんど?)は直接関与せずに、ただ原稿(や企画も?)を出していただけで済んでいたのではないかという風に想像される。
ちなみに、大学図書館コンソーシアム連合JUSTICEの調査によれば、ここに回っていた費用のかなりの部分を占めていたと思われる大学図書館の図書購入費は、350-380億円程度で推移していたようだ。医学系図書がかなり高額だったりするので人文系を扱う学術出版社にここからどれくらい回っていたのかはわからないが、人文系の専門的知識を持った編集者の雇用にもそれなりに費やされていたのではないかと思う。(余談ながら、これが2016年には169億円になっており、180-200億円ほど減ってしまっているので、この間に相当の雇用が失われてきているのだろう。90年代後半には0円だった電子ジャーナルが300億円に増えているが、この多くは海外の電子ジャーナル会社に流れているのだろうと思うと、日本の文化研究の足腰が弱まっていく様がここにも垣間見えるようである。)
次に、図書館が色々やってくれていた部分。まず、すでに上で金額を挙げたところだが、出版社の活動に資金を提供してくれていた。上記の「図書購入費」350-380億円の多くは出版社に行く費用であり、それは出版流通全体を支えると同時に、「原稿を受け取ってあとはなんとかしてくれるお仕事」という人文系研究者の活動を支える資金にもなっていたのではないだろうか。(現在、同じような構図は世界中の大学から購読費用を徴収して学会活動にそのお金を回してくれる電子ジャーナル会社でも行われているように思える)。また、入手した資料を湿度・温度が安定した状態で保管しつつ、いつでも必要な場所から取り出せるようにしておくことも、何もない状態から実現しようと思ったらかなりの手間と費用が必要になる事柄である。特に、「必ず使うわけではないけどいつか使うかもしれない」いわゆる積ん読本が、研究を深めるためには非常に重要なのだが、これを10万冊、100万冊、ということになると、建物や設備を用意して維持するだけでも相当な費用がかかるだろう。本棚も机・椅子も、安全に使えてある程度長持ちするものを購入しようとすると決して安いものではない。そしてそこには人件費も相当にかかっている。また、資料を探しやすくするために、コンピュータで検索できるようにするなら、それをデータ入力するにも人件費がかかり、データを維持し、少なくとも開館時間に利用できるようにするためのコンピュータシステムの運用にも少なからぬ費用がかかる。そういうことをやってもらうのに、たとえば30人必要だとしたら、それだけで1-2億円くらいは毎年かかるだろう。建物もいずれは増築したり建て替えたりしなければならないとしたら、その費用も勘案する必要があるだろう。一方、貴重な資料であれば、鍵付の部屋に保管して、利用希望者が来たら取り出して閲覧させるための対応者が必要になる。ここでも、鍵付の部屋の維持、閲覧室の確保に加えて、これに対応するための人件費がかかることになる。こういったことについてとても言い尽くすことができないくらい色々な要素があるが、とりあえずここまでとして次に行ってみよう。
図書館の相互貸借サービス。これは全体のコストが見えにくいものだが、何もない状態からこのサービスを構築することを考えてみよう。まず、自分の図書館には当該資料が存在しないことを確認できる仕組みが必要である。常に増え続ける資料について動的に対応できる仕組みを運用するには、それなりの人件費とシステム維持費用がかかるだろう。有料・無料の図書館向け検索システムパッケージがあるのでそれを購入するか自力で導入するといういことになるだろうか。そして、どこに依頼すればいいかを確認するためには、各図書館の蔵書の情報が簡単に探せるようになっていなければならない。これには、各図書館の蔵書情報を集約して検索できるシステムがなければとても大変なことになってしまう。国立情報学研究所ではそれを実現するための共同書誌データ構築検索システムを運用しているそうであり、そこにもやはり、それなりの人件費やシステム維持費用がかかっていることだろう。つまり、各図書館において専門知識を持った図書館司書の一部の時間にかかる分の人件費と、国立情報学研究所に回っているいくらかの(もしかしたらそれなりの)費用とが、このインフラを支えるために費やされているということになる。
図書館に関して、人文系研究者としては、「それは大学の教育研究全般にとって必要だから導入されているのであり自分たちのためだけではない」という風に考えてしまいたくなる。実際、これまでのところはそういう面が大いにあり、人文系研究者としては全体のためのシステムのごく一部を利用するだけでよかった。しかし、少し角度を変えてみると、多くの人文系研究者がそのようなサービスを少しずつ活用しているのであれば、いわば、大がかりな資金が皆に少しずつ還元されているとみることもできるだろう。もしかしたら、一部の人文系研究者は、そういった大がかりな仕組みの構築に貢献してきたのかもしれない。たとえば国文学研究資料館の古典籍のデータベースなどは、そのようなものの一つと位置づけることができるのかもしれない。
具体的な金額がどうかということはともかく、こういう感じで、出版社の方々の才覚と、図書館のインフラに支えられて人文系の研究者の研究環境が提供されてきたために、たとえば実験室や実験器具から自分で資金をとってこなければならなかったり、大がかりなコンピュータ環境を用意しなければ大規模計算ができなくて仕事がうまく進まないような研究者に比べると、恵まれた環境で研究ができてきたと言えるのかもしれない。
このように考えてくると、やはり出版社がこれまで果たしてきてくださった機能を半ば失いつつあるようであることは、その部分に人文系研究者が自ら対応しなければならないということになるのかもしれず、費用がかかる部分については、何らかの方法で外部研究資金を獲得しなければならないということになるのかもしれない。そして、最近危惧しているのは、たとえば先日、母校である筑波大学図書館が資金不足でクラウドファンディングしていたように、図書館のサポート機能が弱まっていくのではないかという点である。まだ貴重資料はきちんと保管していて求めに応じて見せていただける(と信じている)し、既存の図書雑誌はそんなにご無体な形で廃棄されることはない(と信じている)し、図書検索システムはとてもよい感じで運用されている。しかし、一部の強力な大学を除いて「紙の図書はもういらないのでは」という話にいずれならないのかということは、近年の様々な性急な動きのなかでは少しだけ懸念される事項である。もしそのシステムを徐々に失うことになったとしたら、人文系研究はどのようにして展開し得るのか、ということもいつか考えなければならないのかもしれないと思うことも最近は時々ある。
個人的には、むしろ逆に、大学図書館にはより強くなってもらって、特にデジタル対応を進めることで人文系インフラを強化していく方向に行ってもらいたいと思っているが、足下がどのように支えられてきたのかということも意識していかねばと思っているところである。
というようなことをこちらのシンポジウムのディスカッションを聞きながら考えていたのでした。
それから、自腹を切って研究に必要な資料を買う、というケースはもちろんあって、それはおそらく今でも人文系研究者の場合結構多いのではないかと思うのだが、研究対象への愛が高じて研究をしている人が結構いて、どんどん本を買ってしまったり、高価な資料にお金を注ぎ込んだりしたというケースをよく耳にする。ただ、その原資がどこから来ているかというのは色々で、とにかく給料しか収入がないのにそれをつぎ込んだり、書いた本があたったから印税収入でどんどん買ったり書庫も作ったり、元々家が資産家だったり親の代から研究者で家に資料がかなり蓄積されていたり、あるいは実家に国宝重文級の資料が色々あったり、多種多様なパターンがあったが、そのようにして、個人でなんとかしてしまっていた方々もおられたようだった。とはいえ、そのことは、個人で入手可能な資料を使って実施できる研究であることも意味しており、人文学全体としてみた場合、それほど多くの割合ではないかもしれない。
ちなみに、私個人としては、学生・院生時代は頑張ってバイトして学術書やら啓蒙書などを色々買ったりして、個人のお金もそれなりにつぎ込んでいるが、お金を出しても買えない資料も多いのでインフラ的なもののお世話になることが多かったしこれからも多いだろうと思われる。
もう一つ追記しておくと、調査や学会発表のための「旅費」は曲者だ。これは外部資金に依存しないなら、院生時代の先生方は何もせずとも配分される校費のようなものが数十万円はあったようだったが、院生の自分には自腹しかなかった。しかし、哲学・思想という一見すると移動から縁の遠そうな研究科であったこともあり、海外に行くことがなかったこともあり、院生時代は旅費で苦労したことは特になかった。夜行バスを使うことも結構あったが、長距離ドライブが好きで、一般道で京都大学や広島大学に行って発表したことも何度かあった。一般道だとガソリン代と体力さえあえればなんとかなる上に途中で誰かを拾っていって安くあげることもできたので、まあなんとかぼちぼちやっていた。自動車を持っていたのか、と都会で学生生活をした人だと驚くかもしれないが、筑波大学のサークル等には先輩から数万円で自動車(決してきれいなものではない)を譲り受ける習慣というか儀式のようなものがあり、名義変更も車検も自分でやっていた。ちょうど、ユーザ車検が始まる前後だったが、開始前も自分でやっていた。当時は業者以外で自分で車検をする人が少なかったこともあり、色々予習してから陸運局に行ってあれこれ聞きながらやってなんとかなっていた。もちろん、自賠責と重量税は安くならないので、それはなんとかバイト代でまかなったが。要は、都会のちゃんとした収入がある人達が乗っているようなピカピカできれいなアクセサリーのような乗り物とは一線を画す何かだったのだ。
話を戻すと、人文系でも、当時から海外フィールド調査や海外発表が必須の分野も少なくなく、そういう分野の人達は旅費が自腹だと到底対応できなくなるので、外部研究資金獲得に熱心で上手な人が多かったように思う。大学院を中途退学して、東京外国語大学のアジア・アフリカ言語文化研究所というところにCOE研究員として赴任したときに初めてそういう世界に入り込んで、やや内側から見ることになった。当時あの研究所は(調べればすぐにわかるが)巨大な助成金を獲得して旅費を工面しており、同じ人文系でもこんな世界もあるのかとびっくりしたのであった。自分の分野も海外で幅広く展開しており、大学院時代は結局あまり触れることがなかったのだが、この頃から海外の研究者とも交流を持つようになり、旅費確保のための外部研究資金獲得ということも半ば習慣のように身についた。しばらくして母校の先生達が代替わりで国際派の先生方になり、院生向けの海外渡航助成金がいつの間にか充実するようになり、母校の出身分野も全体的に国際的な感じになって外部研究資金獲得も特に目立つようなことではなくなったようだった。