北米大学図書館の日本研究司書の人たちの危機感を実感した話

今、いくつか原稿を抱えていて、本当ならこれを書いている場合ではないのだが、しかし、この感触を忘れないうちに記しておきたい。

 

北米大学図書館の日本研究司書の人たちの危機感を実感した

 

という話。

 

特に、ミシガン大学日本研究司書の横田カーター啓子さんやハーバード燕京図書館日本研究司書のマクヴェイ山田久仁子さんからよくおうかがいする話で、他の北米日本研究司書の方々からもちょこちょこおうかがいする話として

「中国韓国(多分台湾も)はネットで資料が手に入るけど日本は全然ネットで手に入らないからこのままだと利便性で圧倒的に負けていて若い人がそれを理由に離れていってしまいかねない」

 

という、割と、日本の将来にとって危機的な話がある。これは、江上敏哲さんが彼のご著書『本棚の中のニッポン 海外の日本図書館と日本研究』をはじめとしてあちこちでしておられる話でもある。そこら辺の事情を知る人なら誰でも感じる危機感である。私自身も、海外の仏教学研究者からそれに似たクレームを受けることは少なくないので多少は危機感を共有できていると思っていた。

 

しかし、先日、

 

デジタル・ヒューマニティーズに関して指導をしている大学院生が相談に来たので色々話をしているなかで、検討対象となっている資料が参照している資料集のようなものをちょっと見てみたいねえ、という話になった。1970年代に台湾の中央研究院から出版されたものなので、パブリックドメインではないだろうし、まあでも一応、ネットで探してみるか…と、探してみたら、なんとGoogle Booksにあった。有料で。お金を払うとGoogle Playで読める。Google Playはコンビニでギフトカードを買えばそのポイントで購入できるので(クレジットカードの所有が簡単ではない学生/院生にとっては重要)、さっそく彼とコンビニに行って(ついでにコーヒーなども買って)、戻ってきたらすぐにその資料を読めた。やや荒いスキャンだが、人が読むには十分であり、しかも部分的にだがOCRがかかっていて、数字のところなどは検索までできて、確認したかった箇所もすぐにみつかった。この資料を確認できたことで、次回の国際学会での発表申し込みのアブストラクトの内容をほとんど決めることができ、あとはそれに基づいて文章を書いてきてね、ということになった。

 

…こんな話は、電子書籍業界に少し詳しい人なら誰でも知っているような話だろう、と思うかもしれない。しかし、これが、海外にいる人にとっての日本の資料だとどうか、ちょっと考えて見よう。なぜこのように考えるかと言うと、上記の大筋は、海外(日本)の研究者が台湾の資料を参照するという話なので、海外の研究者が日本の資料を探してみるという話と対比するにはちょうどよいのではないかと思ったのであった。

 

 と言っても、私の場合、海外で日本の資料を参照することの大変さについては十分な知識はないかもしれない。今のところ知っているのは、「日本の図書館では、海外から複写依頼があった場合、著作権保護期間中の著作物はルール上電子送信できないので紙のコピーを郵送している(ので、送る側も大変だろうけどとにかく頼む側にとっては時間がかかり過ぎて話にならないという問題: 参照⇒海外から申し込む |国立国会図書館:)」だけである。もしかしたらもっと良い方法が今はあるかもしれないが、とりあえずこの話を前提とすると、

 

 (ここからは単なる想像です)もし海外で、教員と大学院生が、日本研究に関する研究について相談しながら鍵となる論文を読んでいて、参照されている資料の内容を確認してみたいと思ったら、まずはGoogleで検索してみるだろうか。しかし、Google検索ではすべての本の書誌情報が検索できるわけではないようなので、見つからなければNDLサーチなども使って検索してみるだろう(上記の事例ではGoogle検索で見つかった)。しかし、書誌情報が完備していなかったり、論文の参照の仕方が不十分だったりして候補となる本がたくさんあったり(上記の事例はそうだった)すると、実際にはどれを参照しているのかよくわからない(上記の事例では似た名前の本がいくつか見つかったが内容を一部表示してくれるので確認できた)ので、内容を確認するためにすべての本をとりあえず確認してみなければならない。「どれだろうねえ」となる。とりあえず、近くの図書館に少なくとも候補の一部は所蔵されているようなので、まず、その図書館に行くべきかどうか考える。行く時間はあるか。探す時間はあるか。探したとして、なかった場合どうするか。(もちろん、本が並んでいるところに行けば、探している資料だけでなく他にも色々な関連する資料が視野に入って発想が広がることがあるので、個人的にはなるべく図書館に行くのが好きだしそのようにしているのだが)なかった場合は、研究司書さんに探してみてもらおうか、資料が見つかったらまた続きをしようか、ということになって、この日の研究の相談は終わりである。「この資料を探してみよう」これがその日の相談の成果だ。(上記の事例では、次回の国際学会での発表申し込みのアブストラクトの内容が決まっている)

 

 さて、大学院生(というよりおそらく研究司書さん)が資料を探し始めるわけだが、資料が入手しやすいところになければ、国立国会図書館あたりに複写依頼をかけ、紙で送付してもらうのを待って、送ってきてもらう。しかし、中身が確認できない場合、確認したい本と微妙に違っていたり、複写依頼をした場所がずれていたりしたら、もう1回複写依頼をすることになるかもしれない。複写した資料があたりかハズレか、というのは、研究司書さんと大学院生の間のやりとりで解決できるかもしれないし、あるいは相談相手の教員に資料のコピーを持って行った相談の場でハズレだと発覚して再度相談、となるかもしれない。最長で2週間くらいでなんとかなるのだろうか?あるいは1ヶ月?

 

 ご存じのように、特に北米では、研究成果をどんどん出していかないと専門家として生きていくことは難しい。そして、日本研究をしている大学院生が資料を入手するために数週間をかけている間に、たとえば中国の研究をしている大学院生は、アブストラクトを作って、また次に進んでいるのであるのだとしたら、そのような環境下では、そもそも、日本研究をしていると研究業績が少なくなってしまうので、「東アジア研究」などの枠で勝負になった場合、日本研究の若手が勝てる可能性は少なくなってしまっているのではないかという気がする。こんなことをしていてもらちがあかない、となったら、その資料をみなくても研究できるようにテーマを少しずらそうか、という話になるかもしれない(時々耳にすることのある日本と海外での日本研究の違いはこういうところにも起因しているのかもしれない)。資料をみるだけでこんなに大変だったら、わざわざ日本研究なんてしなくても、中国や韓国も漢字文化圏で古い時代なら知識も生かせるし雰囲気も似てるし(日本人から見ると似てないが)、資料はすぐ入手できるし、中国韓国の研究に移行するか、という風になるかもしれない。いずれにしても、研究発表をしなければ生きていけない米国の研究者業界で、日本研究はおそらくそのような不利な状況におかれているのだと思う。(違っているところがあれば教えてください。)

 

ちなみに、今のような状況でも、多分、インターネットが普及する前は、問題なかった、というより、むしろ、郵便制度が完備していた日本には大きなアドバンテージがあったと思う。しかし、インターネットが普及した今、それを活用できていない現状は、単純に、海外から見ると「不便な状況を放置しているだけ」に見えてしまっているような気がしている。もちろん、どこかがお金を出してくれないとできないことではあるのだが、「どういう風にお金をだしてくれればどういうことをします」ということをきちんと提示しないことにはお金を出しようがないような気もする。一次資料に関しては、しかも著作権が切れているものに関しては、国立国会図書館国文学研究資料館早稲田大学をはじめとして、各地で大きな動きができてきているが、それもまだまだ網羅的と言える段階ではなく、多くはそれほど希少性の高くないものである。そして何より、学術書がまだあまりデジタルで海外から読めるようになっていないそうである。学術出版社だけでなく、学術系の刊行物を出しておられる皆様におかれましては、ぜひなんとかしていただきたいと、改めて思った次第である。

 

(そうそう、前提として、知日家(親日家でなくてもよい)は少しでも海外には多い方がいいと思っている、ということもあります。日本文化のことは、知られていないよりは知られている方が、色々な面で良いと思うのです。)

 

もちろん、できることがあればご協力もしたいと思っておりますので、私にお手伝いできそうなことがあれば、お声がけください。