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大正新脩大藏經刊行に関わるあれこれ

この件は、以前にツィッタ連投して書いたことがありましたが、改めてちょっと書いてみます。(書きかけ)

大正新脩大藏經とは
 大正新脩大藏經(以下、大正蔵)は、高楠順次郎、渡辺海旭を都監として行われた大正末期から昭和初期にかけての仏典刊行事業の成果物である。最終的には全100巻で構成され、85巻のテクスト部分、12巻の図像部、3巻の目録部、となっている。テクスト部分は、印度由来で漢訳された印度撰述部33巻、中国由来の中国撰述部22巻(第34-55巻)、日本由来の日本撰述部29巻(第56-84巻)、敦煌文書等1巻(第85巻)、となっている。次に、図像部だが、名前からすると図像ばかり入っているように思える。確かに、カラー刷りの仏画をはじめ、色々な図像が収録されていて見ているだけでも面白く、それまでは困難だった仏画等をともかくも閲覧できるようになったことは大きな意義があったようである。とはいえ、それだけではなく、図像に関する解説の文書等も採録されており、実はテクスト部分も結構多い。また、テクスト部分の中に悉曇が比較的多く見られることも特徴的であるように思われる。目録部3巻は、当時把握されていた日本中のあちこちの寺の一切經の目録と、明治時代に刊行されたいくつかの大藏経に加えて、代表的な仏典目録等で構成されている。大正蔵の目録に関しては他の大藏経との対応や典拠となった一次資料についてもまとめて記載してあり、利便性に配慮したものとなっている。

 大正蔵以前にも、すでに活版の大藏経がいくつか刊行されていたが、大正蔵はそれらに比べてもいくつかの点で画期的なものであった。一つは収録テクストの配列の仕方であり、ここにはそれまでに蓄積されてきた近代仏教学の成果が反映されている。
 そして、先行する大蔵経が我国に残る木版大蔵経を校合・利用して作成されたのに対して、大正蔵では、それらに加えて国内に伝承されてきた写本経典をも参照したのである。写本経典は、奈良・平安時代に我国に持ち込まれたものも多く、宋代以降となる木版大蔵経に比べるとテクストのかなり古い姿を残している可能性があるということになる。代表的なのは正倉院聖語藏であり、大正蔵においては(聖)と略されて校合結果が注記されている。
 また、従来の活版大蔵経と同様に和綴じ本を刊行したが、同時に洋装本をも刊行し、諸外国に広く流通させたという点も画期的だった。こういったことから、大正蔵は漢訳・中国語仏典叢書のデファクト・スタンダードとなっていったのである。ここでは、昭和1935年1月号の雑誌『ピタカ』における大正新脩大藏經全百巻完成記念特集、当時発刊されていた雑誌『現代佛教』の諸記事に加えて、大正蔵の再刊に際して発行された会員通信をまとめた、大正新脩大蔵経刊行会編『大正新脩大蔵経 会員通信合本』(1998年)等を参照しつつ、大正蔵刊行にまつわる諸事項をまとめてみよう。

刊行のきっかけ
 大正蔵刊行に関する初の会合は大正十年の冬のことであった。大蔵経を出版したいという思いを持つ人々が30人ほどで会合が行われたが、この時点では高楠順次郎はあまり乗り気ではなかったという。ちょうど、訓点の付いた卍字藏・卍字続藏と呼ばれる大蔵経の刊行が終わったところであり、また、新たに大蔵経を出版するのであれば多くの一次資料(写本・木版本等)を比較校合しなければならず大変な事業になること、一方で、明代に多くの一次資料と数十人の学者を集めて十分に吟味して作成された明藏(万暦版大蔵経)があり、それが最良のものであり、さらにそれを復刻したのが卍字藏なのだからそれで十分である、という意見もあったという。
 一方、全百巻完成を記念する雑誌のエッセイにおいて、九州帝大教授干潟龍祥は当時を回顧して、自分たち貧乏書生の嘆息が最初の動機であったと記している。大学を卒業して間もない頃、二十人ほどの学生・卒業生・教員で東京帝大に2揃えしかない縮刷藏を回し読みしなければならず、当然自宅に持ち帰ることも許されないという状況で、しかし購入するにはあまりに高額であるということで、縮刷藏を再版できないかと高楠順次郎に相談したところ、最初はあまり乗り気でなかったが徐々に話が膨らんでいったということである。
 そのような中で、高楠順次郎が乗り気になった大きな転機は、石山寺一切経の調査を通じてのことだったようである。当時は田舎写経と呼ばれていた石山寺天平一切経だが、明藏と対照してみると校正で毎頁真っ赤にみえるほどになっていたという。これを知ったイギリス大使のエリオット博士が、奈良天平時代の写本であるなら対照し、出版する義務がある、キリスト教徒なら一寸刻みにして研究するだろう、と主張した上、ドイツ大使のゾルフ博士にもこのことを伝え、二人で熱心に勧めてきたという。このことが、大正蔵刊行を決意させた直接的な理由だったということである。
 もちろん、高楠順次郎が一人で全てを仕切れるわけではない。一つには、新光社書肆の人が、高楠順次郎と共に都監を務めることになる渡辺海旭を連れて刊行をお願いしてきたということがあった。加えて、校訂編纂の実務を取り仕切る担当として小野玄妙を得られたことも大きかったようである。
 資料から知られる限りでは、高楠順次郎が大正新脩大藏經の刊行を始めた経緯は、概略、このようなものであった。


元になったテクストの話
 大正蔵高麗大蔵経の再雕本(以下、麗蔵再雕本)を底本としているとされている。高麗大蔵経は元々、北宋時代に蜀で開版された木版大蔵経である開宝蔵を復刻する形で11世紀に開版されたものである。これは初雕本と呼ばれるものであり、現在ではその全体を確認することはできないが、南禅寺に部分的に残されており、それがWebでも公開されている。この時の版木は13世紀にモンゴルが侵攻してきた際に焼けてしまった。その後、江華島に避難した高宗が開版させたものが麗蔵再雕本である。麗蔵再雕本は、開宝蔵を底本としつつ、他の版と対照しながら編纂された木版大蔵経である。誤彫が少ないという定評もあった。しかしながら、麗蔵再雕本は異体字が多く『高麗大蔵経異体字字典』では3万種近くの異体字を収録している。また、字形の安定性も必ずしも高くない場合もある。そのような大蔵経を一から活字として起こしていくというのはなかなかの困難が予想された。それだけでなく、ここで利用できたのは紙に刷られて増上寺に残っていた貴重な大蔵経であり、そのような大蔵経を自由に取り扱って校訂編纂作業を行うということはさすがにできることではなかった。そこで、すでに同じ増上寺の麗蔵再雕本を底本として既に刊行されていた縮刷蔵(後述)をベースとすることになった。といっても縮刷蔵は活字が非常に小さく、そのままでは扱うことが難しかったのだが、上海の頻伽精舎から縮刷蔵の活字を大きくした大蔵経が刊行されていたため、これを原稿として手を入れていくということになったようである。また、縮刷蔵の時点ですでに増上寺所蔵の宋版大蔵経(以下、宋本)と元版大蔵経(以下、元本)と比較対校していたことから、これも基本的には引き継ぐ形となったようである(このことについての問題点は船山徹[2008]等で指摘されている)。
 さて、このように大正蔵編纂にあたって重要な役割を果たした縮刷蔵だが、干潟龍祥が述べているように、大正蔵刊行以前の仏教学研究においては欠かせない大蔵経であった。これがどういう資料に基づいてどのように校訂編纂されたかということについて、ここで少し見てみよう。

 縮刷蔵に関しては、刊行事業を率いた島田蕃根による詳細な回顧録が残されており、これを中心にして見ていこう。縮刷蔵、すなわち大日本校訂大蔵経は、明治12年に事業開始となった、和綴じ本で四十帙四百十九冊からなる活版の大蔵経であり、分量・費用ともに、明治上半期としては空前の印刷事業であったと云われている。この事業にあたっては、教部省内務省社寺局等に仕官した漢学者である島田蕃根を中心として、増上寺の行誡上人や、西洋で印刷事業を研究してきた色川誠一をはじめ、多くの関係者が参集し、増上寺大門前の源興院に弘教書院を置き、そこで大蔵経の校合に取り組んだのである。行誡上人の好意により、ここで、増上寺所蔵の三大蔵、すなわち、麗蔵再雕本を底本としつつ宋本、元本と、さらにここに、島田蕃根が入手した黄檗大蔵経(鉄眼版一切経)を明本として加えて、それら四蔵を対照しての校合が行われることになったのである。

 増上寺所蔵の三大蔵は、国内の寺院に所蔵されていたものを徳川家康が集め、増上寺に寄進したということである。このうち、宋本は湖州の円覚禅院、法宝資福禅寺(前者の寺格があがって後者の名前になったとされている)によるものである。北宋末、1126年にはすでに印刷が始まっており、思渓蔵とも呼ばれている。元本は元代の初めに杭州の普寧寺で改版されたものである。1276年、元の軍隊により思渓蔵の版木が焼失してしまったことから、杭州の大明慶寺の寂堂思宗が他山の高僧達と議論を行ない、当時力のあった白雲宗の助けを得ることができ、開版に至ったのである。

 この校合にあたっては、松永知海[2008]によれば、まず黄檗版(鉄眼版)を用いて麗蔵再雕本に相当する原稿を作り、それを用いたということである。また、筆者の脳内リソースによれば(勘違いもあるかもしれないので後ほど改稿予定)、麗蔵再雕本そのものを使って原稿を作成するのはさすがに困難であったところ、忍澂上人が黄檗版(鉄眼版)一切経建仁寺所蔵の麗蔵再雕本とを対校した(これにも多くのドラマがあったようであるが後ほど加筆したい)ものが残されていたため、これを用いて麗蔵再雕本としての原稿を作成したそうである。さらに、忍澂上人は、鉄眼版等に収録されていない慧琳撰の『一切経音義』百巻(一切経に登場する語句の字書)を発見し、独自にこれの木版本の刊行に着手した。これはその後、頻伽精舎刊行の大蔵経(縮刷蔵の複製版)において底本として用いられ、さらにそれが大正新脩大藏經の校訂においても用いられている。

 実際の校合の様子は、島田蕃根が述懐するところによると、まず一人が大きな声で高麗蔵の原稿を読み上げ、他の三蔵をそれぞれの担当者が確認し、注記すべき点があれば声をあげ、検討した上で原稿に書き付けるという形で行われた。十分な知識を有する人手の確保が容易ではなかったことから、各宗派に声をかけて担当者を募るといったことも行っていたようである。印刷に際しては、事業に尽力した一人である稻田佐吉が所有する活版所があり、それを 弘教書院活版所と名付けて取り組みを始めたが、最終的には全て大蔵省の印刷局で行われることになった。また、当初は句読点等は付さない予定であったが、増上寺の竹川辨中が「大藏経に訓點を附すべし」という主張を『明教新誌』掲載したこともあり、句読点だけは付けることとなった。

 上で紹介した干潟龍祥の弁のように書生にとっては極めて高額なものではあったものの、それまでは木版でそれほど広く所蔵されておらず、持ち運びも困難であった大蔵経を、広く人々の座右とし携帯もしやすくできるようにし、さらに、三大蔵との校訂による信頼できるテクストを広く流布させることになったという点で、この縮刷蔵の事業は大変意義の深いものであった。そして、この縮刷蔵が大正蔵の実質的な底本となったのである。

印刷と震災

 当初は新光社が印刷を請け負うということで準備が進められていった。大正12年4月8日より芝の増上寺にて国宝の三種の漢訳大蔵経及び明蔵(黄檗版)の校合に着手し、5月からは上野の帝室博物館で東京に移送された正倉院聖語蔵の古写経の校合が開始された。

 宣伝も進み、800人ほどの予約を受けたところで大正12年9月1日の関東大震災が起きた。大正蔵に関わる原稿やカード等は高楠家にあったため難を逃れたが、新光社は焼尽し、破産となり、大蔵経の印刷を断念し、これについても高楠順次郎の手に委ねられることとなった。大震災は東京帝大の仏教資料にも甚大な被害を及ぼし、満州一切経西蔵一切経、蒙古一切経といった貴重資料に加えて所蔵されていた縮刷蔵もこの時に消失してしまったそうだが、増上寺の三大蔵、淺草観音の元蔵、上野寛永寺の天海蔵は無事であり、それに加えて、上野帝室博物館にて校合されつつあった聖語蔵の古写経も、博物館倒壊にもかかわらず無事であり、大正蔵で用いられる資料や原稿など、事業の基礎となる部分については大きな影響はなかった。そしてさらに13年正月からは宮内省図書寮にて宋本一切経の校合が行われた。資金面でも深刻な問題が生じたが、実業界の篤志家の援助を得ることができ、震災後も引続き事業が継続され、大正13年5月にはついに第1巻の刊行にこぎ着けたのである。

 さて、印刷所はどうなったのかと言えば、震災後、京華社を専属工場とすることになった。京華社は本来小さな印刷所で、所謂町工場であった。それが大蔵経のような大出版を引受けたために、活字母型から全紙の印刷機、それから輪転機に至るまでかなりの設備増強を行うこととなった。印刷工場も隣家から隣家へと拡張していったため、二階の壁を打ち貫いて広げたり、下からの階段を取り外したりするなどして接ぎ木に接ぎ木を重ねるようなことになっていたという。

 印刷に際しては、特に苦労したものとして第54巻の音義書と梵字が挙げられている。まず背景事情として、音義書というのは経典中に登場する音義のわからない文字・言葉に関する説明をする辞書であり、本来、各経典の巻末にそのようにして挙げられていたものを蒐集して一冊にまとめたものであると想像されるのだが、実際の所、経典には一切登場しない文字が音義書の中にのみ登場して説明されているというケースが極めて多く、結果として、音義書が初出の文字というのが数千単位で登場することとなっている。
 このことは、現在SAT大蔵経テキストデータベース研究会の事業の一環として筆者らが取り組んでいる大正蔵外字のISO/IEC10646符号化提案においてまさに直面している問題である。まず、大正蔵全体として見れば、ISO/IEC10646ではExtension Eまで含めてすでに約8万字が登録されているにもかかわらず、字形の違いのみで判定した場合、大正蔵全体には、そこにおける例示字形と異なる字形を持つ漢字が1万種以上含まれている。同規格における漢字の包摂規準を適用することでその数は6000種程度になるが、当時の活字の包摂規準と現在の文字コードにおける包摂規準とは比べるべくもないものである。同規格に登録されている漢字ですら、すでに通常はほとんど用いられない文字が大量に含まれており、さらにそこにも含まれないような字形がそれだけ存在するということは、膨大な数の、当時としても通常は用いられないような活字を作成することになったことが想像される。そして、上述の約6000字のUCS外字のうち、すでに半分の約3000字はCJK Unified Ideographs Extension F(この半分はExtension Gとなる可能性がある)としてIRG会議に提案している。残りの半分が、一切経音義及び続一切経音義においてのみ登場する約3000字のUCS外字ということになる。現在はこれに関して、正確を期すべく文字の来歴を改めて一つ一つ確認しているところである。これには、伝承上の問題として、かつては音義書に登場する字形の文字であったにもかかわらず経典自体の方は伝承と共に字形が変化して一般化し、音義書においてのみ、変化する前の字形を残しているという事例も少なくないと思われる。また、その一方で、高麗蔵の時点ですでに誤った文字が用いられ、それがそのまま伝承されていることが玄応撰の一切経音義古写本から確認できる例もあるが、大正蔵では慧林撰の一切経音義を高麗蔵と頻伽精舎本との比較校合によって編纂しているに過ぎず、結果として、高麗蔵の誤りをそのまま忠実に活字化したといったこともあったようである。
 いずれにせよ、このようなことから、大正蔵の音義書編纂刊行時には新たに活字を大量に作らねばならず、さらに、見出し語が5号活字であるのに対して、これを説明する文章は割り注の形で1行の幅に2行書かれることになるため、結局、6号活字をも別に作らねばならなかった。結果として6号活字を新たに1万本作ることになったそうである。毎日、校正を行い、作るべき字を書き出して整理するだけで大仕事であるにもかかわらず、結局一日200〜300本ほど新たに活字を作らねばならなくなったようである。このため、直属として依頼していた木版屋2軒だけでは間に合わず、他に7軒を探して割り当て、木版から活字を作る鋳造部も外の工場にも頼み、それでも深夜までの仕事が続き、9月の豫定が初冬までかかって、ようやく刊行にこぎ着けたようである。

 梵字についてもかなりの苦労があったようである。縮刷蔵においても梵字が登場するが、これに比べると大正蔵のものは素人にも格段に見分けやすいものとなっている。大正蔵梵字の原型は和田智満大僧正の筆跡を活字にした弘法大師全集所用のものであった。和田智満大僧正は慈雲尊者の門裔であり、梵字では明治以降第一等の名家ということである。ただ、これは4号活字であったので5号活字の大きさにて新たに活字母型が作成された。特に梵字が多く登場する密教部(第18巻〜第22巻)の開版にあたって、昭和2年秋から準備に着手した。それ以前に生じていた若干の梵字は木版のままで用いていた。

 梵字の整備は逸見梅榮が中心となって取り組み、活字のケースまで作ったという。しかし逸見は印度で患った胃病があり、胃が痛むため、工場の床に茣蓙を敷き、そこにうつぶせに寝込んだりしながらも仕事を続けるなど過酷な状況で仕事を続け、これがもとで、後には胃潰瘍になってしまったという。特に第一期の密教部及び辞彙部の悉曇書で苦労したおかげで、第二期の第84巻悉曇部においてもかなりの用意ができていたようである。ただ、それでも、悉曇蔵等の梵字専門書に関しては新彫字が5号6号活字あわせて千本以上に上ったということである。このことは、SAT大蔵経テキストデータベース研究会の事業の一環として筆者らが悉曇異体字をISO/IEC10646に共同提案した際の調査でも実感したところである。すなわち、密教部等の比較的最初の方で発刊されたものについては異体字がほとんど見られないのに対して、特に第84巻悉曇部においては異体字が比較的多く登場する。とりわけ、『三密鈔』等の悉曇の解説書においては異体字をいちいち挙げて説明する箇所があちこちにあり、様々な本から収集された同じ音価の異なる字形を提示するなど、版面作成の困難さをうかがわせる場面がそこここに登場する。また、こうした悉曇書は、写本から直接翻刻校訂したものも少なくなく、手書きの字形に配慮しつつ活字化するということにも少なからぬ困難があったものと思われる。こうした点については、上述の異体字提案の際の調査結果報告ということで、いずれ、別項を期したい。

事業経営に関する困難 
 さて、校合編集印刷については苦労しつつも着々と進んでいたものの、上述のように新しく大量の活字を作成したことや、そのような扱いにくいものであるについて正確性を期すために、校合で五回、校正で約五回、都合十回づつ校訂員の目を通す等して人手が多くかかったことから、経営上は徐々に困難さを増していったようである。このことにつき、大正蔵の編集主任を務め、高楠順次郎をして「君が一切経の主任として努力するに至っては予は全く安心して殆ど一任したのである」と言わしめ、大正蔵編集刊行の実務に従事中、その編集室において昭和十四年、五十七歳で急逝した小野玄妙は『現代佛教』のエッセイにおいて次のように当時を振り返っている。
「高楠先生が教界学界のため此の大業を成就しようとして心身を尽されたことは、実に涙ぐましい極みである。別して震災後自身で発行編集の両責任を引き受けられてから、約三年間の先生の心労は、とうてい私どもの想像を許さぬ程度の深刻さであった。毎月の経費の不足…印刷所の支払いがすめば、紙屋の支払いが足らぬ。やれ人件費がどう、臨時費がかうというようなわけで少なくて二三千円、多いときは四千五千といふ不足である。それを何とか都合して行かなくてはならぬ先生の苦しみは、実にハタから見て居れぬ。そして月の二十三四日頃になると、「君今月はイクラ足らないだらうか」といつて一言聞かれる、なんといふ悲痛な言葉であらう。学人としての先生に金銭の苦労、それも毎月毎月のこととて、此の間の先生の負債は嵩むばかりであつた。…忘れもせぬ大正十三年の七月十二日であつたと思ふ。印刷所の猪木氏は廃業して鉛を売つて工賃を払わねばならぬといふ、先生も金の引き出し所がないといつて夜の一時過ぎまでも疑議し、止めるか続けるかのドン底まで行詰まつたことさへあつたのである。この様な大出版になるとその設備が容易でない。如何な大出版所でもおいそれとやれるのではない。…手近いお話しが此の一切経の出版については、常に二千面の版が回転している。つまり当月の分が校正されつつある間に、翌月の分をくみ上げてゆくのである。口でこそ二千面といふが、その二千面の版上に埋まる活字は、五号活字だけが約三百万本、これに脚注の六号活字や、字間の句点等是れ亦百万本以上に達するので、之に予備の活字を加ふるときは、活字だけで七八百万本から一千万本近くの多数を要するのである。それが全部漢字であるばかりでなく、ご承知の仏教経典専用の文字で母型のない字、字引にない文字が沢山に使用されるのであるから、実にタマつたものではない。…此の二千面組置の設備をするために苦しまれたのは何と云つても高楠先生であつた。何しろ震災直後印刷設備が我国全体に根底から破壊されていた時でありそれに彼のモラトリュームで金融が極度に硬塞していた際に、是れ等設備に要する一切の費用を次から次へと印刷所へ交付されたのであるが、それ金、また金で実にヒドク先生を悩ましたものである。…それにモー一つは人の問題である。御承知の通りその事業に熟練の人を得ることが甚だ難事である。此の一切経の仕事は整版としては文選の仕事である…機械設備の崩れるのも恐ろしいが熟練した工人に離るることはなお一層の大なる損失でなければならない。」
 なお、ここでは小野玄妙はひたすら高楠順次郎を気遣いつつその事業の大変さ、金の工面の大変さについて述べているが、金の工面そのものについては他人事のように読める。しかし、昭和5年9月に小野玄妙を代表社員として高楠・渡辺との3名による合資会社大正一切経刊行会を設立しており、高楠・小野が負債に関する無限責任、渡辺が有限責任を負いつつ、大蔵経に関するものには影響が及ばない形となった。(この時の著作権の扱いについては官報に記録が残っている。( http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957650/10))すなわち、小野玄妙自身も金策について相当の苦労を引受けたはずである。実際、他の人の言によると、
「経営の困難は最初から最後までつきまとつた。…相当の経済的援助もあつたのであるが、膨大な費用を要し、金融逼迫の度は増すばかりで、逆に悪質な高利の借金までするようになつた。高楠、小野両先生は、個人的にも何度かの差押処分を受けられた。五十七回五十八回を刊行する頃は、…高楠先生を中心に、明日の手形支払いのため夜を徹して協議することが毎夜続き朝になればその金策に八方手を尽して飛び回るのである。…このような高利貸しに責められる状態が続く限り自滅のほかない…」という状況だったようである。
 結局のところ、経営に明るい人の助力を得ることとし、別に大蔵出版株式会社を設立して債務を整理することになった。すなわち、「合資会社大正新脩大藏經刊行会(代表者小野玄妙博士)の経営が行き詰まって…幾人もの高利の金融業者からの借金が相当な額に上つており…結局少々の金を都合してみても利払にも困ることが判かつた」。 そこで、「会社債務は一切無利息無期限据置きとして支払を停止し、新会社を設立して、その営業の利益から旧会社に対し…一定の金を払い…旧債を整理する方針を立て」新会社を設立した。しかし「高利貸の連中はそんなことで承知する筈はない。或者は高楠先生や小野先生の自宅財産を差押え、また或者は大正蔵経の著作権の仮差押え、或はその紙型の差押等を執行してきた。」「著作権の仮差押に対しては裁判」 「紙型の差押は爾後の発行が不可能となるので身を以てその差押を拒んだ」。というようなことを経て、ようやく全百巻までたどり着いたのである。
 では、もう一人の都監である渡辺海旭の金策についての立場がどのようであったかというと、「急場を凌ぐためにたびたび渡辺先生のご厄介になつた…お逢いするには深川の西光寺に出向いたものである」。「一度も苦い顔をしたことなく、私の話を半分くらい聞かれると気持ちよく小切手を切つて下さつた。」しかし「渡辺先生も無尽蔵であつたわけではなく、諸方からの融通をされた」とのことであり、少し距離を置きつつも、やはり全面的に支援していたことがうかがえる。

[参考文献]
船山徹[2008]「漢語仏典──その初期の成立状況をめぐって」 『京大人文研漢籍セミナー1 漢籍はおもしろい』(京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター編) 研文出版(2008) pp.71-118.
松永知海[2008]「日本近代における『黄檗大蔵経』の活用」『東アジアにおける宗教文化の総合的研究』,佛教大学アジア宗教文化情報研究所, 2008年, pp. 139-148.