江戸時代の著作権については、
大谷 卓史「江戸時代における「板権」」『情報管理』Vol. 55 (2012) No. 11 pp. 852-854.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/55/11/55_852/_html
にてまとめられている。基本的な知識はこれで十分に得られると思われるが、少し自分の関心と方向が異なるので、中野三敏『書誌学談義 江戸の版本』岩波書店(1995)を手がかりに自分なりにまとめてみる。
文禄・慶長の頃に、朝鮮から渡来した活字版の印刷技術が定着・普及し、慶長から慶安までのほとんど半世紀はこの方法で専ら書物が刊行され、約500種にものぼったということである。ただし、森上修の説によれば、朝鮮式と異なり、我国の古活字版は自立活字による組み立て式であり、これはキリシタン版に学んだところではないかとされている。(p. 31)
しかし、古活字版による書物刊行の流れは、寛永末から慶安末を境として途絶え、再び整版による刊行へと逆戻りし、以後は江戸時代を通じて大半が整版印刷によって刊行された。この理由については諸説あるが、職業的本屋の出現のためではないかと推測される。それまでの刊本は寺院等による営利を目的としない内部的な観光事業であったが、慶長13年には、中村長浜ヱ尉という最初の民間の本屋が出現したことが文献から確認でき、寛永年間には京都に百軒余の本屋があった。この種の本屋にとっての基本的な財産は版木そのものであり、いつでも増し刷りをできる体制を整えておくことが重要であった。原板さえあれば子々孫々にわたって営業を続けることもできた。少々場所はかさばったとしても、財産として版木を残せるということがそのメリットであった。一方で、当時は、紙型を残すという方法が発明されていなかったこともあり、刷り上げるごとに組版をばらしてしまうと増刷の際にはまた一から組み上げなければならなくなるため、財産としての機能を持つことができなかった。そのようなことから、版木こそが営業を支える根幹として扱われるようになったのである。(pp. 34-35)
上記の理由との関連として、筆者は本書のなかに明言されている箇所をみつけられなかったが(見落としたか当然の前提か)、「板株(はんかぶ)」と呼ばれる当時の書物刊行に関わる権利処理の状況が前提となっているようである。これは本屋が版木の内容についての権利を持つことができる仕組みであり、享保期の本屋仲間の公認に伴う出版条例の整備によって確定されたもののようである。一度生じた権利に期限はなく、重版や覆刻のみならず、類版にまで権利が及ぶものであったとされる。この権利を売買することも後には盛んになるようである。この権利にはさらにいくつかの種類があったことが記録されている。「丸株」「部分株」はそれぞれ、一冊の書物全体についての権利と、ある一部分についての権利とである。これはそれぞれに版木をどのように所有しているかと考えれば理解しやすいだろう。また、著者自身が書物全体のうちの1,2枚のみを手元に残しておいてあとは書店に置いておき、印刷のたびのその板を貸し出して書物を刊行するという「留板」という刊行もあったようである。さらに「焼株」という記録がしばしばみられるようだが、これは火事などで消失した版木の権利のみが残ってそのような形になったようである。(p. 288)