著書・共著書は業績であり続けられるのか

※書いていたら長くなってしまったので結論だけ先に書いておきますと、「学術出版社の皆さま、明示的に査読制度を作っていただくとよいと思います」という話を書いております。

研究業績とはどういうものか、ということについて、ずっと考えております。先日はパワポ資料が業績になるかどうか、ちょっと書いてみたところでした。もちろん、業績の「評価」は 評価する主体が基準を決めるものですから、自由に決めてよいのですし、パワポ資料を他のスタイルの研究発表と公平に 評価する基準を作れるのであれば何の問題もありません。個人的には、粗製濫造が可能であり記号の標準化も 不十分なパワポ資料を評価するのはすごく難しいだろうと思いますが、内容に踏み込まずに何がが作られていることさえ 確認できればよいとか、あるいは、altmetricsを評価基準に持込むというようなことであれば結構いけるかもしれないとも思います。

ということで、今日のテーマに入りたいのですが、著書・共著書を研究業績として評価するのはおかしいのではないか、 ということは、大学院生だった四半世紀前からずっと聞いていたことであり(これは自分が情報系の学会にも出入りしていた ためかもしれません)、昨今の人文系バッシングもあって耳にタコができている人も多いと思うのですが、最近とうとう、 神戸大学で以下のような話があったそうで、いよいよ本格的に来るのか…という気持ちになっているところです。

もちろん、著書・共著書の中には明らかに高度な研究成果と言えるものがたくさんあり、 それも、著書のような大部のものでなければ意味を成さないものが多くあるように思います。 いわゆる「理系」でもそういうものはあってもおかしくないのですが、なぜあまりないのかという のは後述します。

にも関わらず、研究業績として評価するのはおかしいと言われてしまうことがあるのは、 研究業績と言えないようなものもまとめてカウントされてしまう可能性が高く、 公平性を欠いてしまうからでしょう。研究成果そのものとは言えない 教科書や啓蒙書でも、分野が異なれば学術書なのかどうかよく判断できませんし、 また、そのようなタイプの本であっても、研究成果が多かれ少なかれ反映されて いるとしたら、研究成果ではないとは言い切れないでしょう。また、 科研費などの紐付きシンポジウムなどでの講演をまとめた論文集が 共著書として出版社から刊行されることもよくありますが、これなどは 査読がない上に、これまでの発表を改めてまとめなおしたようなものも よくみられます。啓蒙書的な位置づけとしてはあり得るかもしれませんが、 「理系」で査読者としのぎを削って新規性や信頼性を厳しく確認した上でようやく刊行された雑誌論文 (このあたりの「理系」の大変さと真摯さは、 3年間、情報処理学会の論文誌編集委員をやらせていただいたおかげで、ごく一端ではありましたがよくわかりました) と同じようにカウントしてよいのかどうかよくわかりません。もちろん、 インパクトファクターやh-indexなどを使えば差別化はできるわけですが、 とくに人文系の場合、そもそもインパクトファクターとかh-indexが 未整備なのでそういう判定もできません。

「理系」でもSTAP細胞論文に代表されるように、論文取り下げは 結構ありますし、とくに我国は論文取り下げ大国であり、「撤回論文数」世界ランキングでは 圧倒的な存在感を誇っているようですので、そんな「理系」の人たちに 色々言われたくない、とするのか、国民性とか政策上の問題だから仕方がない と考えるのか、色々な考え方はあるとは思いますが、後者だとしたら「文系」も チェックが行き届いていないだけで結構大変な状況になっているのかもしれません。 いずれにしても、学術研究に対して疑問符が突きつけられる状況になっていて、 とくに我国ではそれがちょっと大変な感じになっているようであることは確かです。 せめて、何か、研究成果が信頼できるものであるという第三者的な 指標のようなものとか、基準のようなものがあってほしいという気持ちは、 おそらく納税者の立場に立つと多くの人が持ってしまわざるを得ないのではないかと いう気がします。神戸大学の上記の決定の背景の一つにはそういうことも あるかもしれません。

そこでまた著書の話に戻ってきますが、ではなぜ著書である必要があるのか、と 言えば、一つの名前空間というか言語空間の中で厳密に定義された術語を 駆使しないと表現できない新知見があって、それは細切れの学術論文で 査読者ごとに基準が少しずつ異なる査読付きジャーナルでは実現できないこと なのです。では「理系」ではなぜそれがなくても回っているのかと言えば、 おそらく「理系」だと「文系」に比べて分野がかなり細切れになっていて 名前空間や言語空間をほぼ共有できるということと、そのような共有を 行うことが比較的容易であるということが理由としてあるのではないかと 思っております。おそらく、共著書の 中にもそういうものは相当数あるだろうと思います。 ですので、とくに人文系の場合、著書はやめられませんし、これが 研究業績として認められなくなったら人間文化の研究が非常に困難に なってしまい、日本であれば、日本文化は大幅に衰退すると思います。 著書・共著書を研究業績として認めないのは完全に悪手です。

しかしながら、著書・共著書を研究業績として認めようとすると、その 幅の広さのゆえに、どうしても難しいということになってしまいます。 実は現状ですと、これを解決するための一つの方法として、 出版助成をとれているかどうか、という基準があり得ます。特に科研費の 研究成果公開促進費は、 きちんと審査も行われますし、それに基づいて出た成果ということであれば業績として評価する価値が あるとみてもよさそうな気がします。ただ、この場合は、外形上は助成金を取れたということで あって、研究成果という形を取っているわけではありません。助成金を取れたことを 業績としてカウントしてしまうと、非常に殺伐とした世界が訪れてしまいますので、そこを詰めて、たとえば 「これに関してだけは助成金だけど研究業績として認める」というロジックを立てる必要があろうかと思います。 こういうときにいつも難しいのは、「ではこれは研究業績として認められるのではないか」という ことで似たような少し違うものが色々あがってくることなのですが、まあ、科研費の研究成果公開促進費のみに 限定するというようなルールを立てられるのであれば、なんとかなるのかもしれないとも思います。

ただ、これだけですと、出版助成がとれてないものはすべて研究業績として認められないという ことにもなってしまいかねません。今回の問題意識は、冒頭の神戸大学の件にあるのです。 そこで考えられる一つの方策は、著書・共著書に対しても査読を導入することです。 なんだ、さんざんもったいをつけておいてそんな話か…と思われるかもしれませんので 冒頭にも書いてしまいましたが、とにかく、学術的な価値がある ものとして出版されたものとそうでないものとを明白に区別できるようにするには、 査読体制を作って、査読編集委員会がお墨付きを出す、という形にするのが もっとも早道なのではないかという気がします。それをどこが担うのか、と言えば、 学会等で立てるよりは、学術出版社側、それも、個々の出版社というよりは、 複数の出版社で共同で立てるのがよいのではないかという気がします。外野からみている 分には、出版梓会などはこういうものの母体としてよさそうにも見えます。 委員会の人選については、有力な編集者の方々だけでなく、特に文系だと、学術出版社からお願いされればそれくらいなら受けてもいい、という 研究者も結構おられるのではないかと思いますし、うまいこと、広く信頼される研究者や編集者の 方々から成る委員会を立てて、そこからさらに匿名で外部に査読・審査をお願いする、 ということでよいのではないかという気がします。

すでに個別にはやっている出版社もあるように仄聞しておりますが、そうは思えない学術出版社も まだ多く、しかし、このあたりでやっておかないと、 今度の国立大学中期計画あたりで神戸大学の状況次第では他も色々変わっていってしまう のではないかという気がしております。 最近の、一般社団法人日本私立大学連盟による「大学設置基準の要件から図書館を外す」話ともリンクしてしまいそう な気がしますので、それを押し返すという意味でも重要ではないかと 思っております。

もちろん、世界大学ランキングでのパラメータチューニングのようなことには 全然役に立ちませんので、そういう話になってしまうとやはりちょっと弱いのですが、 それは日本語の査読付き論文誌でも同じですので、せめて、査読付き論文と同じ くらいの土俵に持って行けるようにするとよいのではなかろうか、ということです。

編集委員会をたてた後、遡及して評価するということもできるといいかもしれないのですが、 それはちょっと仕事量的に無理があるかもしれず、体制構築以前のものをどう評価するか というのはちょっと検討の必要があろうかと思います。ただ、その議論に引っ張られて 話が始まるのが遅くなったりするのもよくないだろうとも思います。

ちなみに、学術出版社が査読を行うという話は全然無理な話ではなくて、海外ではそういう ことが割と広く行われていると仄聞したことがあり、また、個人的にも、ロンドンの某出版社から 頼まれて共著書の査読をして薄謝ももらったことがあります。提供した労働力にはとても見合わない謝礼でしたが、 関心ある分野についての学術書をよりよいものにすることを支援できた上にお金ももらえる ということであれば、まあいいかなと思ったのでした。

長い割に雑な話になってしまって恐縮ですが、ということで、学術出版社の方々や、 関連する研究者のみなさまに、ご検討をお願いできればと思うところです。