研究業績はなぜ論文でなければならないのか?パワポはダメ?

久々に、いかにもブログらしいという感じの何の役にも立たない記事を書きます。

研究業績はなぜ論文でなければならないのか?

ということは自分としては長年の謎の一つでしたが、では、パワポ資料が研究業績だと言われたらどうするだろうか、と 考えてみることにしました。

パワポ資料、研究業績だと言っても悪くないような気がします。ファイルの形式にこだわって内容を見ないなんてナンセンスです!はい終了!

…と一瞬思ってしまいそうですが、しかし、これを研究業績として評価しようと思った場合に少し難しさが生じてくるような 気がしてきました。

パワポ資料は自由です。テキストや矢印や図があちこちに登場して、 それがなんとなく重なったりつながったりしながら何かをわかりやすく 伝えようとしてきます。いらすと屋さんのかわいい絵がさらにそれを助けてくれる こともあります。

では、目の前にある素敵なパワポ資料の内容が研究業績に値するかどうかを 判断するとしたらどうでしょうか。パワポ資料は 作るだけならすぐにできてしまいますし、正しいかどうかもよくわかりませんので、 研究業績としては、やはり内容がまっとうであるかどうかを確認してみなければ どうにもなりません。

とりあえず自分で内容をよくみてみることになりますが、専門的な内容で あれば判断は難しいので、その筋の専門の人がチェックしてくれて可否を 示してくれていたりすると安心です。学術雑誌だと「査読付き」雑誌で 採録されていれば、それがある種の質保証になりますね。(とはいえ、あとで 撤回されることもありますので査読付き雑誌に採録されていれば正しいという ことでもありませんが。)

さて、それでは、他の人が作ったパワポ資料を自分が評価するとなったとき、どうでしょうか。 スライド内にちりばめられたそれらの 矢印やテキストは、どういう意味を持っていると解釈できるでしょうか。矢印の形と 意味について、作者と同じ意味づけを共有できているでしょうか。図の重なりが あったとして、そこに作者は包含関係の提示を意図しているでしょうか。それとも 単なる偶然の重なり、あるいはデザイン上の問題でしょうか。イラスト屋さんの キャラの少し影の入った表情は研究成果の表現としてどのように位置づけられているのでしょうか。 …最終的に、そのスライドが説明しようとすることを正確に理解できていると確信できそうでしょうか。

というようなことを考え始めると、そもそもそういう記号の使い方を我々は 共有していないのではないか、という気持ちになってきます。そういえば、 フローチャートがあるじゃないか!国際標準だし!ISO 5807:1985をみんなで勉強! UMLもあるぞ!!ISO/IEC 19505-2 だ!!

と思ってみても、そういえば、パワポ作者がそれをきちんと使ってくれているかどうかが はっきりしないとそもそも評価はできないぞ…ということになります。

そうすると、パワポ資料を作成するときに、記号の使い方として準拠した規格名を 書いておけばいいということになりますが、そうすると「パワポ資料を研究業績に」 という話が含意するものとはかなりかけ離れた感じの話になってしまいそうです。 まずはいずれかの記号に関する規格を勉強するところから始めなければならなそうですね。

という風に考えてみると、論文ってなかなかよくできているものですね。 基本的に、文章があって、必ず一方向に読んでいかなければならないことになっています。 しかも、よくわからないことに、文章は一方向に読んでいくしかないにも 関わらず多層的・多面的な概念や状況を描写することもできてしまいますね。 というより、論文の文章を一意に理解できるということは、それだけ 文法が子細に標準化・共通化されているということであり、そして 非常に時間をかけてそれを用いた教育が施されているということでもあります。 これはフローチャートやUMLの勉強どころの話ではなさそうな気もします。 図が付されたりすることもありますが、多くの場合、図の読み方が文章で説明され ます。数式は、順番は関係ないこともありますが、解釈の仕方が決まっているから 特に問題ありませんね。

他人が表現する「成果」なるものが妥当なものかどうかを判断するためには、 少なくとも書かれたものの内容を理解する必要があり、そのためにはその 表現の仕方を書き手と読み手が共有していなければなりません。それを割と 長い間継続できている論文という仕組みはなかなか素晴らしいものであり、 しかし、そのために文法の標準化や教育というコストを社会全体としてかなり大きく かけてきているということにも圧倒されます。そのようなことを 踏まえつつパワポ資料を研究業績として きちんと扱おうと思ったら、そこで用いられる記号群やそれらの配置の 仕方について、相当程度標準化するとともに、その内容を容易に共有できる ようにトレーニングの仕組みも用意する必要がある…ということになるでしょうか。

いやはや、なかなか大変そうですね。