3D学術編集版:人文学の研究成果/研究環境としての3D構築

このところ、3Dに関する取り組みがデジタル・ヒューマニティーズの世界でも見られるようになってきました。この週末には人文学と3Dをテーマとしたイベントも開催されるようで、いよいよ盛り上がりが始まる気配を感じさせます。

ではデジタル・ヒューマニティーズにおいて3Dがどういう風になっているのか、ということをちょっと見てみますと、どうも最近、Susan Schreibman先生(今はオランダのマースリヒト大学)がかなり凝っておられるようで、 充実した論文を2つ、Costas Papadopoulos氏とともに2019年にオープンアクセスで刊行しておられます。Towards 3D Scholarly Editions: The Battle of Mount Street BridgeTextuality in 3D: three-dimensional (re)constructions as digital scholarly editions なのですが、前者は具体的な事例を踏まえた実践論、後者は方法論に重きをおいた 論文のような感じです。

Susan Schreibman先生と言えば、アイルランド文学研究をバックグランドに持つデジタル・ヒューマニティーズの研究者であり、デジタル・ヒューマニティーズという言葉を(おそらく)初めて使った A Companion to Digital Humanitiesというこの分野の基本書(現在はこれの改訂版が出ています)の3人の編者のうちの一人であり、TEI (Text Encoding Initiative) にも力を入れていて、学術編集版(いわゆる校異本・校訂本)の表示システムであるVersioning Machine の開発プロジェクトを率いた人としても知られています。日本にも何度かいらっしゃってDHに関する講演やTEIのワークショップを開催してくださったりしました。コロナ前は世界中を飛び回っておられて、学問的にも地理的にも幅広い視野でデジタル・ヒューマニティーズに取り組んでおられる研究者の一人かと思います。

さて、その Schreibman先生が、しばらく前から3Dに取り組んでいる、ということになれば、これは期待せざるを得ません。すでに上に挙げた2つの論文で充実した成果報告がなされていますので、詳しくはそちらをご覧いただけたらと思いますが、ざっと見ての現在の印象を少しだけメモしておきたいと思います。

基本的に、上記の研究は、それまでSchreibman先生が取り組んできたテキストによる学術編集版、つまり、いわゆる校異本とか校訂テキストのような、確かなトレーサビリティを含む学術研究に耐え得る信頼性を持った版を3Dで作るとしたら、換言すれば、これまでの学術編集版におけるテキストを3Dに置き換えるとしたらどう考えるべきか、という問題に取り組んでいるように思われます。

テキストにおける学術編集版というのは、テキストならではの抽象性・捨象性によってずいぶん楽になってはいるものの、書かれていることを学術的な証拠として用いるためにはどうすべきかという、紙媒体の時代、とりわけ活版印刷出現以降の苦闘の歴史が、デジタル媒体の登場により戦線拡大してしまい、Schreibman先生も注力してこられた TEI (Text Encoding Initiative) ガイドラインなどは、その課題にがっぷり四つに組んできたという経緯があります。多様な注釈や文脈情報をテキストでもその他の様々なメディアでも組み込んでしまえるという利便性をどう活用するか、といった拡張的・開放的な課題だけでなく、それまでは暗黙的に共有されてきた曖昧さをどう表現し、それをどう受容するか・されるか、という、いわば内省的な事柄も、デジタルになってから、より重要な課題になっています。そのようなデジタル学術編集版の(30年ほどですが)伝統を踏まえて、研究に耐え得る3Dの版を作るとしたら…ということで、テキスト研究での課題を援用しつつ色々な検討が行われているようです。そのあたりの検討は、さすがに読み応えがあります。そこで参照されている関連研究も含めて、ぜひ読んでおきたいところです。

実装に関しては、プラットフォームが安定しないためにテキストに比べて寿命が短すぎることが課題としてあげられていますが、しかしながら、デファクト標準に沿っておく方が内容に注力した議論ができるということで、現在は Unityを使っておられるようです。Unityはビデオゲーム開発のためのゲームエンジンとして100万人以上の開発者(ゲーマをする人ではなくて作る人)が使っているのだそうで、3D環境を構築する上でとても便利なのだそうです。もちろん、広く採用されているがゆえに作り方・使い方を知っている人が多く解説文書も多い、ということもあります。

この種のものとしては、ある時期、Second Lifeが広く使われていた時期がありましたが、価格設定の変更で教育利用の優遇措置がなくなったのでほとんどの研究プロジェクトが消滅した、とのことです。これもなかなか残念なことです。

ちなみに、人文学での3Dの利用には、個々の事物のデジタル複製を作成して閲覧用としたり、計測に利用したりと、様々な利用方法がありますが、そういう意味で、ここで言う学術編集版のための3Dの利用、というのは、そういった色々な使い方のなかの一つとみることもできるでしょう。

さて、このようにして3Dの学術編集版を作ろうとすると、時系列を入れざるを得ず、結局4Dになってしまうようです。4Dミラーワールド、という話は、ヨーロピアーナのリーダーがデジタル文化資料の近未来として描いていたことでもありますので、欧州各地でそういう方向に向かおうとする雰囲気ができつつあるのかもしれません。

というわけで、ここでもやはり3D+時系列としての実質的な4Dモデルが作成されます。題材は、1916年アイルランドでのイースター蜂起のさなかの水曜日、マウント通りが運河を越える橋で起きた戦闘の経過です。Schreibman先生は、このプロジェクトの前には Letters 1916-1923という、この時期に書かれた書簡群をクラウドソーシング翻刻するプロジェクトを率いておられたので、そちらでの成果を継承しておられる面もあるのかもしれません。

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Letters 1916 の成果の一部

3D空間をどのように構築するか、ということは、軍事史家とのやりとりの中で決めていったようで、テクスチャをなるべくきちんと表現することや、アバターを登場させないようにすることなど、読者(閲覧者)がこの学術編集版をどう理解するか、かれらにどう理解させるべきか、という観点から検討が行われたようです。他にも、構築にあたっての色々な検討は、学術編集版のあるべき姿を考える過程として興味深いもので、時間があればぜひ読んでみていただきたいです。

このようにして、当該地区の3D地図をUnity上に構築し、そこに研究資料として得られた情報を展開していき、時空間の中でそれらの情報を確認していけるようにする、というのが、この3D学術編集版がもたらす基本的な要素のようです。このことが、史料批判も含めて様々な可能性をもたらしてくれるであろうことは、門外漢でも期待してしまうところです。

そのようなことで、雑ぱくな感じになってしまいましたが、デジタル・ヒューマニティーズにおける最近(といっても2年前ですが0の3Dの状況の一つとしてご紹介させていただきました。

ちなみに、私も、2017年くらいからUnity使って3Dデジタル学術編集版を作りたいと考えていたのですが、この学術編集版の話を聞いたとき、(2019年のユトレヒトでのDH学会のパネルセッションで 知ったのですが)、私の考えていたものとはまったく観点もコンセプトも違っていて、3Dが導入されると学術編集版もかなり多様化しそうである、と思ったことでした。私が考えていたものというのは、 その後も時間も予算もなく、なかなか進まないまま現在に至り、このままお蔵入りしてしまうのかな…と思っているところです。